そのドアを開けたらゾンビがいる

わかっているんだけどねぇ〜☆

お土産にコーヒー豆を持って行こうという時に

気の置けない友人宅に遊びに行った。

甘いものを持って行くのでコーヒーあるといいからコーヒー豆も持って行こう、せっかくならこの夏ハマっていたシェケラートを振る舞おうと思い立ち、直火式エスプレッソメーカーであるブリッカとシェイカー、そしてコーヒーミルも持参して台所をお借りし、シェケラートとアメリカーノを淹れて出した。シェケラートは甘いものとセットだったので砂糖は抜きにしたことで酸味が目立ちすぎてないか不安だったが喜んでいただけたようで胸をなでおろした。そして非常にリラックスした素敵な週末を過ごした。

さて、道具持参で人の家に行ってコーヒーを淹れるというのは、振り返って最低必要な道具一式を考えたり、はたまた家でコーヒーを淹れることへの入り口に再び思いを馳せることとなってよいものだ。

今回はシェケラートというお題を自分で決めてしまったので、必然的に道具は決まっていったのだが、改めてエスプレッソメーカーの手軽さに感動した。今回はそういうお話です。

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人間は料理する

https://www.instagram.com/p/BkunANWhqgc/

料理は積年の天敵だった。苦手意識のかたまりで可能な限り避けていた。「少々」ってなんだよ、俺とお前の「少々」にいつコンセンサスが取れたんだよ?ひとつまみ?手の大きさが違うだろうが、と心の中でイチャモンをつけるものだから、理系の料理本なんかには一定の興味はしめしたものの、それでもしっくりくることはなかった。

かつて料理に憧れたことはあった。本を読み、手際よく料理する様がなんともクールだったからだ。そして一番クールだと思ったペペロンチーノを見よう見まねで作りはじめた。ネットで情報収集をする以前のお話なので、おそらく本などで知識を得、あとはひたすら世界に浸った。毎晩のように深夜につくられるペペロンチーノは味の安定をみることもなく、大方のブームがそうなるようにいつのまにかやらなくなった。当時買ったなかなか良いパスタ鍋がどこにいったかすらもうわからない。料理に興味があったというよりは、本で読んだその光景に憧れた、というのがこの時は正しい。


一時期、料理と歩み寄ろうとしたこともあった。まずは身近で簡単なことからの方が身につくはずだと朝食用の卵料理に手を出した。そんなに昔のことではない。せいぜい4~5年前のことだ。ネットでレシピを調べながら例のふわとろみたいなオムレツを作ろうとした。その為にしっかりしたベーコンを買った。そのわりに付け合わせのサラダを作ろうという発想はなくコンビニで買ったもので済ませていた。とにかく一点集中なのだ。数回で飽きた。そもそもが初心者なのにスキルで差が出る料理を選んでいるのだから美味いものができるわけがない、飽きるのも当然だろう。


そうやって振り返ると現在は少し様子が違う。きっかけはたまたま食べたチョップドサラダの美味しさと食のドキュメンタリー映画だ。これによって、加工食品や弁当・ジャンクフードを食べず、野菜を買ってきて食べるということをやりだした。もちろん生で野菜をボリボリかじる訳にもいかないので簡単にでも調理することになる。その目的で一番はじめに選んだのが野菜のぎゅうぎゅう焼きなのも良かった。料理をする人からみたら笑ってしまうだろうが、シンプルで少ない調味料とオーブンで焼くだけという簡単な工程だが数回やるだけでただ野菜を切るにしてもやってみるとオーブンで焼く際に均等な焼き加減になるような切り方とかに気づかされていちいち感動するのだ。何故それをするのか?ということを体験で気づかされたのは大きい。レシピに書いてある些細なことにきちんと意味があることをひとつでも体感できれば、他のことにも意味があるはずだ、という確信に繋がる。お前は何わかりきったことをと思うだろうが、私はそういうことにすら気づいていなかったし、そういうことを知りたかったし、その知見の連なりの先に応用が見えてくるその景色に興奮したのだ。


そうやって野菜のぎゅうぎゅう焼きとチョップドサラダにはじまり今はスパイスカレーに手を染めています。切る・(オーブンで放置して)焼くの次の課程として炒める・煮るという方式を学んでいるわけです。


それがここ2ヶ月のできごとです。

面白かったドキュメンタリーやカレーを作っている時の楽しみなどを今はうまく説明できずにモヤモヤしていたので振り返ってみました。

 

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是枝裕和監督『万引き家族』を観ました。

https://www.instagram.com/p/BkIBLxPhhEY/

鑑賞後はパンフレットも買って読み、さらにインタビュー動画やメイキング、Web上のいろいろな批評・感想なども興味深く読み聞きしました。

とても良かった、というのが私の感想にはなるのですが、今回もその「とても良かった」という言葉に座りの悪さを感じてしまいます。映画に対して良いと感じているのにもかかわらず、とても広い範囲をカバーできてしまう「とても良かった」という言葉によって、自分の感じたことを誤解されてしまうんじゃないかというようなモゾモゾとした小心な気持ち。是枝監督の作品の中でも特に好きな『歩いても 歩いても』や『海よりもまだ深く』に対しても似たような落ち着かなさを感じたことを思い出します。

それは私にとっては、(今回に限らず)モチーフの社会的に暗部として捉えられているような事柄・問題性によるもの*1よりも、たとえば主人公と(主に)樹木希林さんをはじめとする家族とのやりとりや温度感・距離感だったり、あるいは徹底的によごしぬかれた家・実家の感じだったりが映画を飛び越えて照らしてくるおそらく自分の中の陰と陽の感覚の想起なんだろうな、と思っています。

たとえばリリー・フランキー演ずる治の子供っぽさや頼りない感じ、『海よりも〜』や『歩いても〜』での阿部寛演ずるの良多の情けなさなんかを他人事として笑い飛ばすなんてできないし、彼らが家族と接するときのちっぽけな見栄や言い訳じみたプライド、そのろくでもなさを目にする時、「はっ!深淵!」と思わず目をそらしたくなってしまうし、そういったものが外の世界・他人に対してではなく、実家のような今では少し離れた家族に対して発揮される時の、うっかり自分に対しての陰口を耳にしてしまったかのような不快感、それはダイレクトに傷口をいじるのではなくその周辺をいじられているかのような立つ瀬の無さに、おもわず気持ちも塞いですら来る。

にもかかわらず、映画にはずっと観ていたい心地よさが間違いなくあって、万引きの後に親子3人で歩く河原、隣の部屋でうつ伏せにくつろいでいる松岡茉優さんを映すシーンやクリーニング店の在籍権を巡って争う信代と仕事仲間のやりとりでの切り返しだったりをはじめとしたハッと息を呑む美しい映像だけではなく、さきほど不快にすら感じていたそのものの裏側にある受け入れられ感というか、どうしようもないわがままが許される(目を瞑ってもらっている)ぬるま湯の心地よさ、親の手料理だったりという染み付いた快適感に浸れるような感覚を覚えることもそのひとつだと思う。

なので、個人的には是枝作品を観るというのは、ある種マゾヒスティックな趣がベースにあって、その延長線上に映画で描かれるモチーフが載せられてくるような感じがして、とてもじゃないければ私ごときがおこがましくてコメントなどできますまいと愛想笑いしてしまうような気持ちにさせられるのだけれど、つまり恥ずかしさ、自信の無さなんかがしっかりと蓋をしてとても偉そうなことなど言えないのだけれど、その心的距離感の崩壊によってそれらのモチーフは確実にとても不思議に自分のこととして「考えされられる」し、あのシーンが良かった!とか役者さんのあの演技がすごかったとかそういう類の感想と比べると、そこで考えさせられたことはあまり言葉して外に出さないかもしれないけれど、しっかり澱のように心に残っていくのです。

 

gaga.ne.jp

*1:それはもちろん軽々しく扱えるようなものではないが

おすすめの霧吹きスプレーの話

「植物は良い。」そんなことばをついに漏らすようになってしまった。

日照ぐあいや風の強さに思いを馳せたり、筋トレ後の1時間のゴールデンタイムよろしく3〜6月あたりのあいだにどれくらい新芽が育ってくれるかを祈ったり、貯水葉が〜などと言うようになってしまった。

良い感じの湯気が脳から出始めたこのタイミングでヤバいブツをもらってしまった。

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