そのドアを開けたらゾンビがいる

わかっているんだけどねぇ〜☆

是枝裕和監督『万引き家族』を観ました。

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鑑賞後はパンフレットも買って読み、さらにインタビュー動画やメイキング、Web上のいろいろな批評・感想なども興味深く読み聞きしました。

とても良かった、というのが私の感想にはなるのですが、今回もその「とても良かった」という言葉に座りの悪さを感じてしまいます。映画に対して良いと感じているのにもかかわらず、とても広い範囲をカバーできてしまう「とても良かった」という言葉によって、自分の感じたことを誤解されてしまうんじゃないかというようなモゾモゾとした小心な気持ち。是枝監督の作品の中でも特に好きな『歩いても 歩いても』や『海よりもまだ深く』に対しても似たような落ち着かなさを感じたことを思い出します。

それは私にとっては、(今回に限らず)モチーフの社会的に暗部として捉えられているような事柄・問題性によるもの*1よりも、たとえば主人公と(主に)樹木希林さんをはじめとする家族とのやりとりや温度感・距離感だったり、あるいは徹底的によごしぬかれた家・実家の感じだったりが映画を飛び越えて照らしてくるおそらく自分の中の陰と陽の感覚の想起なんだろうな、と思っています。

たとえばリリー・フランキー演ずる治の子供っぽさや頼りない感じ、『海よりも〜』や『歩いても〜』での阿部寛演ずるの良多の情けなさなんかを他人事として笑い飛ばすなんてできないし、彼らが家族と接するときのちっぽけな見栄や言い訳じみたプライド、そのろくでもなさを目にする時、「はっ!深淵!」と思わず目をそらしたくなってしまうし、そういったものが外の世界・他人に対してではなく、実家のような今では少し離れた家族に対して発揮される時の、うっかり自分に対しての陰口を耳にしてしまったかのような不快感、それはダイレクトに傷口をいじるのではなくその周辺をいじられているかのような立つ瀬の無さに、おもわず気持ちも塞いですら来る。

にもかかわらず、映画にはずっと観ていたい心地よさが間違いなくあって、万引きの後に親子3人で歩く河原、隣の部屋でうつ伏せにくつろいでいる松岡茉優さんを映すシーンやクリーニング店の在籍権を巡って争う信代と仕事仲間のやりとりでの切り返しだったりをはじめとしたハッと息を呑む美しい映像だけではなく、さきほど不快にすら感じていたそのものの裏側にある受け入れられ感というか、どうしようもないわがままが許される(目を瞑ってもらっている)ぬるま湯の心地よさ、親の手料理だったりという染み付いた快適感に浸れるような感覚を覚えることもそのひとつだと思う。

なので、個人的には是枝作品を観るというのは、ある種マゾヒスティックな趣がベースにあって、その延長線上に映画で描かれるモチーフが載せられてくるような感じがして、とてもじゃないければ私ごときがおこがましくてコメントなどできますまいと愛想笑いしてしまうような気持ちにさせられるのだけれど、つまり恥ずかしさ、自信の無さなんかがしっかりと蓋をしてとても偉そうなことなど言えないのだけれど、その心的距離感の崩壊によってそれらのモチーフは確実にとても不思議に自分のこととして「考えされられる」し、あのシーンが良かった!とか役者さんのあの演技がすごかったとかそういう類の感想と比べると、そこで考えさせられたことはあまり言葉して外に出さないかもしれないけれど、しっかり澱のように心に残っていくのです。

 

gaga.ne.jp

*1:それはもちろん軽々しく扱えるようなものではないが