初めて作ったハンバーグが初めてのわりにうまくいった。単なるイチ夕食のメニューだが、あまりに嬉しかったので撮っておいた写真を自分で何度も眺めている。
ハンバーグを作るのは難しいことだと思っていた。ある程度以上の腕を持っている人じゃないとうまくいかないという先入観があった。空気を抜くとか中まで火を通すとか。ハンバーグはそういう困難を伴わなければ到達できないデリケートな料理というイメージがあった。
誕生日に何を食べたい?と訊かれてハンバーグを作ってほしい、と答えた。食事の対象はもちろん外食も含まれていたのだが、シンプルで美味いハンバーグを食べたいと思い、お願いした。イメージしていたのはさわやかとかそういう無骨ないわゆる肉々しいハンバーグで、料理の上手いパートナーはそのあたりも想像したうえでストライクで最高なハンバーグを作ってくれた。けっして手作り至上主義というわけではないが、ただ単にその時思いつく可能な限り美味しいものを食べたい、という発想が我々の共通項だ。それが吉野家の紅生姜をたっぷりとのせた牛丼の時もあれば、多少遠出して並んでも食べたいカレーの時もあり、手作りのタフなハンバーグの時もある。ただ、その選択とそれに伴う(必要があれば)労力の放棄をしたくはないと思っている。その結果、美味しいごはんを食べられた時には全ての語彙は死んで食べ終わるまでただひたすら美味しいと脳内で反芻しながら幸せな時間を過ごすことができる。そのことを思い出してしばらくご機嫌でいられる。我ながら能天気だ。
もともとはそんなタイプではなかった。毎日昼時には近くのコンビニで毎回全然飽きずに同じ弁当を食べていた。そういうことに余計な労力を使いたくなかったんだろうし、ある程度好みの味をしてくれていればあとはスムーズに腹を満たせば何の不満もなかった。当然、料理することになんて興味もなにも価値を見出していなかったし、その手間と時間を他のことに使う方が圧倒的に良いと思っていた。当時のフェイバリットは炭水化物爆弾みたいなチョイスで、ネギトロ巻きと焼きそばとか、とろろ蕎麦に納豆巻きにコロッケとかだった。いつもそういうものばかり好んで食べ続けていた。
それがいつからか変わって、どうせ食べる一食なら、そのとき選びうる可能な限り美味いものを食べたいと思うようになり、そう行動するようになった。その日の昼になにを食べたいかを朝に考えていたり、同じものを続けて食べなくなったり、ある程度のリサーチをしたり、必要があれば多少時間をかけたり、そういったそれまでしなかったことをするようになった。自分のことを良い舌を持っているともグルメだとも思わないが、食事をむげに扱っている自分に嫌気が差した、というのがおそらくもっとも近い感覚だろうと思う。そのせいで自分は気づかずにいろんなことを見逃していたのではないか、と感じたし、それはもったいないことだと思った。ポイントは自分でそう感じたからやり方を変えた、という部分で、過去に遡って「変えるべきだ!」なんていう気はない。その時にはそこに価値があったはずでそれはそれでいい。それが変わったら変わったでいいし、変わらなかったとしてもそれでいいと思っている。今、自分はたまたまそんな遍歴を重ねた。それ以上でも以下でもない。
自分の作ったハンバーグの写真をうっとり眺めながらそんなことをつらつらと考えた。ハンバーグをつくるということは遥か彼方にある、少なくともこちら側ではない出来事だと確かに思っていた。その謎の境界線を越えた“こちら側”にいざ立ってみると見える景色の趣きはかなり違う。いまや、次にハンバーグを作る時の使う肉の割合とか、つなぎにどういう材料をチョイスをするか、ソースをどんな方向に変えるか変えないか、付け合わせをどうするかを妄想している。おそらくはかつて高いハードルの要素となっていた事柄たちであるが、近くで見ると愛おしい構成要素だ。なにが起きるかわからないものだ、とつくづく思う。
作ってもらった美味いハンバーグに少しでも近いものを作れるようになって逆に振る舞ってみたい、そういうところに手が届きそうな場所にいる。そういう楽しみを知ってしまった。