そのドアを開けたらゾンビがいる

わかっているんだけどねぇ〜☆

ゴッドファーザーとクライベイビー

かつて赤ちゃんとの接し方がわからなかった。

兄弟に子どもが生まれた時も、なんとも恐ろしくて抱っこすら拒んだ。相手に問題があるわけではない。他人事というのもあるんだけど、こんな小さな生物をどのように扱えばいいんだろう?という未知への恐怖みたいなものがイレイザーヘッドさながらに自分の醜いエゴから目を背けさせた。今となればそう思うというだけだが、それにしても我ながら酷いと悔いている。

そのうち同じような感覚を共有していると勝手に思っている近しい友人たちに子どもができ、なによりその友人たちの変化(するしないに関わらず)をわずかにでも目にするようになってはじめて、自分の中の赤ちゃんへの抵抗がスッと消えていった。あるいは単に歳をとったということなのかもしれない。今では、電車で赤ちゃん連れのお母さんを目にすると自己満足のために嬉々として席を譲っている。譲ったあとはどっか違う車両に行ったりしてお互いあまり気づかいせず過ごせたらこちらとしては気が楽だと思うので、移動してしまう。一言二言の会話をするような器量がないのが恥ずかしい。ベビーカーが必要なくらいのお子さん連れの人たちってどの車両に乗るか時点からナーバスになってることを知ったり、電車の中で赤ちゃんが泣いてしまった時のお母さんたちの困りよう、それは周りの人への配慮という意味だ、にそんなに気にしなくてもと声をかけたくなるものの、そんな気のきいたナチュラルさがないので、関係ないところでこちらまで勝手に萎縮してしまったりしている。

私はジェンコ・オリーブオイルのロゴTシャツを買っちゃうくらい映画『ゴッドファーザー』シリーズが好きなのだが、この映画では劇中かなり不穏な状況下でも赤ちゃんの泣き声がバックで敷き詰められていることがある。ドンの元に数々の「お願い」に集まる人々はそんな泣き声を背景に自分の受けた屈辱に対する対応の相談をドンに持ちかける。ようするに法外な仕返しのお願いだ。しかし、私のおぼろげな記憶か思い込みかもしれないが、赤ちゃんが泣いている時には最悪な事態は起こらなかった。誰かが暗殺されたりといったシーンですら非常に日常的な光景の中行われるのだが、大人たちの悲鳴こそ轟けど、そこは赤ちゃんの泣き声がするような環境の日常の中ではなかったように記憶している。赤ちゃんが泣いている時、最悪な事態は起こらない。それはいたってささやかな平和の象徴だし、多くの問題はあれど、とりあえず世の中はなんとかバランスをとってまわっているという証のようなものにすら思えてくる。だから、頼むから泣かせておいておくれ、少なくともそのあいだは最悪なことはおこらないよ。あとは疲れて寝てしまえばいい。それ以上、何を求めるというのだ。

最近、街中や電車の中などで赤ちゃんが泣いている光景に出くわすとだいたいそんなことを考えている。